Run my girl (1)

「結婚するんだ。あたし」
突然の報告だった。生ぬるい風が一瞬固まり、そして流れていった。
私たちは海岸沿いを走っていた。


その日私は早めに風呂に入り、午後六時には部屋着で夕食の準備をしていた。実家からもらってきたそうめんを食べるつもりだった。胡瓜とハムを細切りにする。錦糸卵を作る。市販のつゆを薄める。イージーな夕食だ。
普段あまり鳴らない電話が鳴って、私は胡瓜を切る手を止めた。
「もしもーし、元気?」
電話は千果子からだった。久しぶりに聞く彼女の声は相変わらず間延びしていて、どこか遠くから聞こえてくるような不思議な遠近感があった。
「久しぶりじゃない。どうしたの」
「別に。ね、今から走らない?」
「え?」
「いいじゃん、走ろうよ。いつもんとこ。スッキリするよ」
私と千果子は小中高と同じ学校だったこともあって仲が良かった。高校を卒業すると千果子は東京の大学に進み、私は地元の専門学校に進んだためだんだんと疎遠になって、ここ三年は全く連絡を取っていなかったが、高校までは何かしら理由をつけて彼女の家の裏にある海岸沿いの道を二人で走っていたのだった。
だから私たちはお互いの失恋を全て知っていたし、その他の悩み事も何となく知っていた。ただ走るのがメインなのでそんなに話しこんだ記憶はない。話さなくても相手のことが分かるというのは、あの頃は気が付かなかったがよく考えると不思議な感覚だった。


「ねえ、行こうよ。久しぶりにさ」
千果子の声はあの頃と同じだ。
「いいよ。でもきっと私鈍ってるわ。明日は筋肉痛だね」
「よっし!じゃあうちまで来てね。待ってる」
千果子の家は私の実家から歩いて10分。つまり今一人暮らしをしている私の部屋からは車で30分はかかる。私はとりあえず胡瓜とハムを切ってしまって冷蔵庫に入れ、去年の夏ジムに通うために買ったものの結局あまり着なかったTシャツとハーフパンツに着替えて車を出した。


千果子に会うのは本当に久しぶりだった。最後に会ったのは高校の同窓会だったが、私は元彼の浩二にかかりきりだったし、千果子はバレー部の集団の中にいたしでほとんど話せなかった。遠くから見る千果子は垢抜けていて、なんだかきらきらしていた。私はそんな彼女を見て寂しくなった。それに比べて浩二は相変わらず馬鹿で、私は二人で昔のことを笑いあって安心したのだった。
「お前が俺に手紙なんかよこしてさ、告白してきたんだよな」
「はぁ?そんなことしてない。あんたが私のこと好きだったんじゃない」
「でも手紙書いたろ?中身覚えてねーけど、熱烈な愛の告白〜」
「あれはノートの切れ端。あんたがしつこいから付き合ってやったの。なんて書いたか全く覚えてないけど絶対熱烈な愛の告白なんかじゃなかった」
「とか言って本当は覚えてんだろ?愛の告白!」
「しつこい!」


浩二とは高校時代二年ほど付き合ったが卒業をきっかけになんとなく別れた。どこが好きだったのか分からないが二人でいるとただ楽しかった。今彼はどこで何をしているのだろう。同窓会以来何度か電話が掛かってきていたが私は出る気になれなかった。


彼のことで走ったこともあった。あれは高校三年の夏休み、浩二は学校の夏補習に全てひっかかり、心配した親に予備校の夏期講習を受けさせられた。おかげで私たちの夏の予定は全てキャンセルされ、私は遊園地にも、海にも、花火大会にも千果子と行った。しかも急に勉強が楽しくなったらしい浩二は地元で一番難しい大学を受験すると言い出し、大した勉強もせずに専門に行くつもりだった私を馬鹿にした。

私は寂しくて、悔しくて走った。千果子は笑いながら走った。
「あいつ、ほんと馬鹿だねー」


千果子が泣きながら走ったこともあった。千果子の両親が離婚した時だ。彼女が両親のことで泣いたのはあの時だけだった。その前に学校で会った時も、「スッキリするわ。二人が一人と一人になって。お小遣いはなんか知らないけど二倍になったしね」なんて笑っていたので私はびっくりして、彼女が泣いているのを見ないふりをしてただ一緒に走ることしか出来なかった。

私たちはとにかく走った。そしてそれは今、とても昔のことのようにも、つい昨日のことのようにも思えた。


いつのまにか千果子の家のすぐ近くまで来ていた。

to be continued...