Run my girl(2)

千果子の家は古い木造家屋で、入り組んだ路地の先にある。私は迷路のようなこの道を初めて車で走った。懐かしく、でも知らない道のようだった。
途中、千果子の父親が別棟の車庫で軽トラックに縄のようなものを積んでいるのを見かけた。彼女の家は兼業農家で、夏のこの時期は忙しい。
母親は離婚してすぐ、以前から付き合いのあった男と再婚したらしいが、父親はもうずっと独り身だった。千果子は父親の方についていた。
「新しい親父なんていらないな。一人でたくさん」
というのが彼女の言い分だった。私は彼女が父親の側につくと聞いてほっとした。それはつまり、彼女が引っ越しをしないということだったからだ。私はまだ彼女のそばにいたかった。


私が千果子と離れて、どれくらいの月日が経ったのだろう。千果子は、大学を卒業してからは実家に戻って地元の不動産会社に勤めていると聞いた。彼女のことを人づてに聞くなんて、何だか変な感じがしたのを覚えている。


千果子が母屋の前で手を振っていた。何か言っているが車の中では全く聞こえない。鉄やガラスは意外と厚い壁になるのだ。私は軽く手を振って、近くの空き地に車を停めた。
「遅ーい!車って遅いね!」
歩いてくる千果子はタンクトップに丈の長いジャージーパンツを穿き、ショートカットの頭に黒のキャップが似合っていた。
ショートカット?私の知っている千果子はずっと髪が長かった。私は彼女の髪で遊ぶのが好きだった。癖のない、しなやかな髪は、何年もの間私の手でおだんごにされたり、三つ編みにされたりしていたのだ。
時間は長い髪を短くする。
「髪、切ったんだね」
思わず口にした。千果子はちょっと驚いたような顔をして、
「そっか、久しぶりなんだね」
と笑った。
「でも似合ってる。遅くなってごめんね」
「嘘。あたしの髪で遊べなくてちょっとがっかりでしょ」
「・・・うん。ちょっとね」
「ははは。やっぱりね」


私たちはまず歩き、慣れたところで走り始めることにした。
「仕事、どう?」
「まあまあ」
「千果子、不動産だよね」
「あ、それ辞めたの。なんか、売ったりとかって合ってなかったみたい。今は老人ホームで働いてる」
「そっか」


そういえば千果子はばあちゃんっ子だった。普段はばあちゃんのことをババアなんて呼んでいたが、ばあちゃんの買い物にはいつも付き合っていたし、何かとばあちゃんの世話を焼いていた。そしてばあちゃんも、千果子の世話を焼きたがった。学校の入学式や卒業式に来るのはいつもばあちゃんだった。
そのばあちゃんが亡くなった時、千果子は走らなかった。彼女が走ろうと言わないので、私も誘おうとはしなかった。ただ葬式の後、彼女の家に行くと千果子の姿は無く、私は何だか不安になって彼女を探した。
彼女を見つけたのはこの海岸だった。千果子はここで、怒ったような顔をしてただ海を見ていた。私は声をかけられず、すぐにそこを離れた。声をかけてはいけない気がした。


「梢子は?書店員って聞いたけど」
「私は楽しいよ。多分。辞めてないし」
「ふーん。多分楽しいってくらいが丁度いいのかもね」
「介護なんてすごいよ。私、絶対無理」
「うん。あたしも最初はおしっことかなんとかの仕事はほんと無理って思ったけど、慣れた。じいちゃんばあちゃん、たまに可愛いし。あ、でもこの前さ、ボケたじいちゃんを介護してたばあちゃんが死んだんだ。じいちゃん夜寝れなくて、すぐばあちゃんのこと呼んでたんだって。で、ばあちゃんも寝れなくて。介護疲れっていうより過労死だったみたい。二人には子どもも兄弟もいなくてさ、本当に二人きりだったの。だからじいちゃんも、後追う感じですぐ死んじゃうんじゃないかなってみんな言ってる。なんか、寂しいよね」
「寂しいね」


私たちの周りの空気は微かな死臭を孕んでいる。それは軽く、そして重い。私たちはしばらく黙って歩いた。晩夏の海風は生ぬるく、私は自分の体が水分を含んで膨張するのを感じた。
「そろそろ走ろっか」
千果子が言い、私たちは軽くストレッチをしてから走り出す。
昔と変わらない景色が流れ出し、私は一瞬、隣でポニーテールの長い髪が揺れるのを感じた。千果子は走る時、いつもポニーテールにしていたのだ。
私はなんだか寂しくなって。スピードを上げて、彼女の先を走った。


すぐに息が切れて苦しくなってきた。昔はこんなにすぐ苦しくならなかったのに。私はいつからちゃんと走っていないのだろう。
ちらっと後ろを見ると、千果子も苦しそうだった。
「ねぇ、あの木のところまでにしない?」
「いいよ」


あそこまでだと思うと自然とスピードが上がった。ラストスパートというのは、意思よりも先に体が求めるものなのかも知れない。
あと少しで目標にした木、というところで千果子は言った。
「結婚するんだ。あたし」


突然のことに私は足を止めてしまった。千果子は私を追い越して先に行ってしまう。彼女の作る風が私の頬を叩く。
千果子は木まで走ってターンし、歩いてこちらに戻ってくる。
「木までって言ったじゃん」


「おめでとう」
「ありがとう」


千果子は笑い、私も笑った。
私はうまく笑えていただろうか。

to be continued...