Run my girl (3)

「相手はどんな人なの?」
言ってから、自分の声が少し震えているのに気付いて驚いた。しかし千果子にはばれていないようだった。前を向いたまま、千果子は答えた。
「うーん、やさしい」
「大雑把だね」
「うん。人なんて細かくはなかなか表せない」
「そうだね。千果子が幸せならいい。なんでもいい」
「はは、なんだそれ。幸せなんだと思う」
「そっか。それならいい」
私はそれ以上聞かなかった。千果子が幸せならそれでいい。口をついて出た言葉に、私は満足した。
私たちはしばらく黙って歩いた。息はまだ弾んでいる。汗が胸を伝って流れるのが分かる。


「あ、カベチョロ」
千果子が言って、私は自分が何か考えごとをしていたことに気付いた。呼吸はもう落ち着いている。千果子の指さす方を見ると、そこには三匹ほどのカベチョロが、誰かの家の塀に張り付いていた。いつの間にか表の道に戻っていたのだ。私たちが歩いている路の両側には家々が建ち並んでいる。
塀の一部のように・・・彼らはそう思っているのだろうが、塀は街灯に照らされて真っ白に光っているので、黒っぽい彼らは目立った。だいぶ暗くなったね。そう言おうして千果子の方を見ると、彼女は変な顔をして白く光る塀をじっと見ていた。私は何となく言葉を飲み込んだ。
「この家ね、前に自殺があったよ」
千果子が囁くように言ったので、私はびっくりして立ち止ってしまった。
「・・・知らなかった。いつ?」
「二年くらい前かな。今は新しい人が住んでる。でもあたし、ここ一人で通るの怖いんだよね」
「住んでる人とか、怖くないのかな」
「さぁ、知らないんじゃない?知ってたら住まないって」
「千果子、どんな人が住んでるか知ってる?」
「知らないよ。見たことない」
「そっか」
私は急に胸が詰まって、絞りだすような声で言った。そっか。
千果子は結婚する。知らない人の自殺の話を聞いて、何故か突然実感が湧いてきた。私は一人取り残されたような気分になった。
寂しくて、怖くて、悔しくて、嬉しくて、涙が出てきた。私は千果子に見られないように、黙って足を速めた。
「何?まだ走るの?」
千果子が慌ててついて来る。私も慌てて逃げる。早足が駆け足になって、二人とも遂には全速力で走っていた。
どこまでも、どこまでも二人で走って行けたらいいのに。ゴールテープがたまらなく怖かった。ただずっと、走っていたかった。最初あたしはそんなことを考えながら走っていたが、だんだん呼吸と動悸だけになって、頭は真っ白になった。涙も止まっていた。


最大心拍数。筋肉が収縮して乳酸がたまる。いろんな筋肉が痛い。酸素。酸素がもっと必要だ。痛い、痛いと思っていたが、それもだんだんどうでもよくなった。自分が風になったような気がした。広い宇宙の中で、ほんのちょっとの空気の流れだ。蝶が羽ばたくと、地球の裏側で竜巻が起こる―そんな言葉が浮かんで、すぐに消えた。そして何も考えなくなった。
空っぽになって走っていると、頭の中に太陽が見えた。白い太陽だ。辺りが暗いので、それはとても眩しく、暖かく感じられた。側には千果子がいた。彼女は私の横を走っていた。


喉が渇いた。身体が水分を必要としているのが分かる。
私たちは千果子の家の水道に走った。蛇口から迸る水は冷たく、気持ち良かった。
「おめでとう」
私の声はとてもクリアだった。こんな声が出るなんて知らなかった。おめでとう千果子。
「うん。また二人で走ろうね」
千果子は言って、右手を差し出した。私は彼女の手を取った。息はまだ弾んでいる。