名前

会社の七階非常階段は僕の休憩所だ。独りになりたくなるといつもここで一服する。空が見えるし、何より車や人の音がしないのだ。聞こえてくるのは工場の規則的なガチャンガチャンという音だけ。生活の音は機械音に吸い込まれてしまう。
それは心地良い混沌で僕を包んだ。僕を変えようとする世界から切り離されて、僕は僕自身に戻れる。
その日も僕はそこでぼんやり空を見ていた。
しばらくタバコの灰の部分が手元の方に侵蝕してくるのを楽しんでいると、不意に非常口のドアが開いた。


「あ、先客がいた」
彼女はそう言って笑った。機械音に混じる彼女の声に僕は戸惑った。彼女は僕の隣に座りこみ、タバコに火を点けると幸せそうに煙を吸い込み、そして吐き出した。それから、立っていた僕を見上げて大声で聞いた。
「いつもここにくるの?」
そこで僕も大声で返す。
「たまにです」
ここでは空間を機械音が支配している。
「そう」
「あなたはどうしてここに?」
「君と同じ理由」
そうして僕たちはしばらく黙ってとめどなく続く支配に身を任せた。
支配?支配とはいつから始まり、いつ終わるのだろう。さっきまで心地良かった混沌は彼女の声が混じることでいつのまにか支配と名を変え、ぐるぐると渦を巻きながら何かの形をとろうとしているようだった。それは僕を不安にさせた。そしてその不安は安心を求めて僕を刺激した。


「・・・・」
彼女が何か言ったが、僕には聞こえなかった。
「え?」
僕は彼女の言葉を聞き取ろうと腰を降ろす。
すると驚いたことに彼女は泣いていた。突然のことに僕はさっき彼女が何と言ったのか聞くことも出来ないまま、ただ所在無く辺りを見回した。彼女のタバコはどんどん侵蝕されていく。


結局僕は膝を抱えて座りこみ、俯くことしか出来なかった。名前も知らない彼女を、悲しみから守ることなんて僕には出来ない。


ちっぽけだった。
その瞬間、僕はこの世界で、宇宙で、最もちっぽけな存在だった。
それは深い悲しみと微かな喜びの予感を内包した小さな存在だった。


彼女はしばらく静かに泣いていたが、彼女のタバコの火が自然に消える頃には泣き止んでいた。そして「ごめんね」と笑った。


何かがパチンと柔らかな音を立ててはじけた。


僕は自分でも驚くほど素早く手を伸ばし、彼女を抱きしめた。
彼女は信じられないほど軽くて、それでいてとても重かった。それは人間の軽さと重さだった。


自然と不自然の混じり合った沈黙の後、彼女は小さな声でありがとうと言った。多分そう言った。そして、離してと言った。僕は彼女から身体を離し、とんでもないことをしてしまったことに気付いて何か訳の分からない言い訳を喋っていた。さっきは、その、機械の音にびっくりしちゃって。すみません。彼女はまた笑って立ち上がり、
「ありがとう!」
と叫んだ。


機械音の支配は終わった。


それから彼女はドアに向って歩き出す。振り返る。
「私、ササハラレイコ。あなたは?」
「あ、寺田。寺田涼平
「テラダ君。ここ、素敵な場所ね」
そう言って彼女はドアを開ける。
「さよなら」
「さようなら」
ドアが閉まる。
死んでいた機械音が息を吹き返す。しかしそれはもう混沌でも支配でもなかった。混沌は目覚め、支配は終わったのだ。その後に生まれたのは名前。新しい、名前だった。


ササハラレイコ。ササハラ。レイコ。
彼女の名前を繰り返す。